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この映画語らせて!ズバッと評論!!『K.G.F:Chapter 1&2』これはプラシャーント・ニールのグラフィックノベルだっ?!!

この映画語らせて!ズバッと評論!!『K.G.F:Chapter 1&2』これはプラシャーント・ニールのグラフィックノベルだっ?!!

作品情報

CHAPTER 1

1951年、スーリヤワルダンはコーラーラ近郊で金鉱(KGF)を発見し、採金ビジネスに乗り出す。全てを一族で管理して巨万の富を築くいっぽうで、労働者は外部から遮断された環境で奴隷のように働かされ、苦しい生活を強いられていた。同じ年にスラム街でひとりの少年が生まれる。少年は唯一の身内であった母を10歳のときに亡くし、生き残るためにマフィアの下で働き始める。ロッキーと名乗った少年は、マフィアの世界でのし上がっていく。やがて最強のマフィアとして恐れられるようになったロッキーは、ボスからKGFの実質的な支配者であるスーリヤワルダンの息子を暗殺するよう指令を受けるのだが…。

CHAPTER 2

KGFを支配下に置いたロッキーは、新たな金鉱を発見し事業を拡大していく。しかし敵対勢力も黙ってはいなかった。スーリヤワルダンの弟で、死んだと思われていたアディーラが現れ、KGF奪還を目指し勢力を束ねていく。そしてロッキーの唯一の弱点である恋人リナをさらい人質とする。リナ救出に向かったロッキーは、アディーラに撃たれ瀕死の重傷を負う。そしてアディーラは金輸出を妨害してKGFを孤立させ、ロッキーの同盟者をせん滅していく。最大の敵に窮地に追い込まれたロッキー…果たして彼はKGFを守り、生き残ることができるのか!?

『K.G.F:Chapter 1&2』レビュー

インドにおいて、『RRR』を抜いて2022年の興収1位を記録したモンスター映画が緊急日本上陸。といっても、英語字幕上映という限定的な環境下ではすでに上映がされており、その中でも高い人気を誇った作品だ。

しかも南インドであっても、タミルでもテルグでもなく、全体的に印象の薄かったカンナダ語映画(サンダルウッド)だったことが周りを驚かせ、カンナダ語映画自体の評価を上げる結果となった。

そのため「KGF」公開前と公開後では、映画の作り自体が「KGF」に寄り添ったものがかなり多くなっているが、これについては必ずしも良いこととは限らない。

近年、北インドのボリウッドよりも南インド映画の方が勢いが増しており、人気が高く、北が苦戦しているという報道や専門家の意見をたびたび目にする。確かに興行的な視点から見ればその通りなのだが、観客が求める映画需要が南の作品の方に傾いているかというと、本当にそうだろうか。

確かに2022年の上位5位に入った3作が南インド映画で、ギリギリ『ブラスマーストラ』が滑り込んだという状態ではあるが、そもそも新型コロナの影響でボレリウッドの超大作が公開できない環境にあったことや、ヒンドゥー至上主義によるボイコット運動などの作品と別の部分での影響が重なったに過ぎない。

欧米化する北よりも、ドメスティックな南の方が人気というのも間違いではないが、1位を記録した今作を観ると疑問に思うことが多く出てきてしまった。

今作の中で描かれていることは、インドならではのものではあるし、監督のプラシャーント・ニールの監督デビュー作『Ugramm』でもその傾向はあったものの、今作でスタイルが確立されたといえる。

ダイジェストというよりも全編が予告編のように展開される独特の構成は目を惹くものがあるのだが、全体的なパッケージとしては、欧米映画に近い作りになっているし、何より今作はグラフィックノベルのように制作されている。

グラフィックノベルの中でも、特に「ホーリー・テラー」や「シン・シティ」のマーク・ミラーの影響を強く感じられるし、プロモーションやエンドロールのヴィジュアルが、どれもグラフィックノベルを模したものとなっているのがその証拠といえるし、シーンのひとつひとつのカットが実にコミック的に感じられる。

あくまで今作は娯楽作品ということで、所々ざっくりしている部分や、かつての「007」のような酷い女性の扱い方、人間ドラマの薄さなどが全体的にちらほらとあるが、それは許容範囲内でし、こちらもコミック的なデフォルメと言われれば納得できてしまう。それよりも画的におもしろさが勝っている。

ヤシュのカリスマ的な雄姿が1シーン、1シーンを一枚絵のように完成させていくこともあって、監督の力量に加えて俳優のカリスマ性が極限まで求められた作品ともいえるだろう。

『K.G.F:Chapter 2』から登場するアディーラ(サンジャイ・ダット)がさらにコミック感を増していて、血生臭いギャングの抗争の中で、異質なキャラクターが前作とのトーン変化を助けるギミックとして大きく機能している。この異質感もマーク・ミラー感を漂わせている。

おそらくプラバースが主演を務める次回作の『サラール』も同じように、グラフィックノベルのようなテイストの画作りになるだろう。

あくまでそういった作品構成や演出は、プラシャーント・ニールの専売特許としておくべきであって、冒頭で触れたように、他のカンナダ映画界だけに限らずインド全体の映画人がそれを模したものを作るようになるというのは、良い流れとは言い辛い部分がある。

その理由としては、どのパートから観ても、なんとなくおもしろく作るというのは、最近の配信ドラマでよくある作り方なのだが、劇場映画もそうなってしまうことを助長する危険性を秘めているからだ。 この問題については今後の動き次第で真剣に考えるべき議題ともいえる。

どうも日本にいる一部のインド映画ファンは、近年のインドエンタメ全般が海外に影響されていると言うと、そうではないと否定にはしる傾向があるのだが、紛れもなく、特に配信サービスが普及されてからは、それが色濃く出ることがより多くなっているし、それに早く気付くべきである。

またそれをインド映画の専門家といわれる先駆者が気づいていないことも問題視するべきなのだ。音楽が大切だと言っておいて、元ネタやルーツに気づけていないのだから論外である。

近年のインド映画はインド映画だけ観ていると語れないと言うのは、そういうことだ。

ボリウッドであっても、サンダルウッドであっても市場規模などの上下はあったとしても、大まかな目指す地点はそれほど変わらないし、全ての映画市場に共通して欧米やヨーロッパ作品の影響が確実に出ている。

南だから優位に立てるかというと決してそうではなく、それぞれ映画作家個人のストーリーテリングや演出力の問題であって、題材がドメスティックだからという根本的な理由ではなくなってきている。

ただ共通して言えることは、コミック映画的な作風が好まれるということだ。

今作において一番重要ともいえる演出のみそともいえるのが音楽だが、音楽に関しては、日刊サイゾー、block FM、エンタメネクストに掲載記事で言及しているのでそちらを!

点数 92

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