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ネットもSNSも遮断されたインドの全寮制女子高を舞台に、少女たちは”自分”とは何者なのかに葛藤する!!『女子高生は泣かない』

ネットもSNSも遮断されたインドの全寮制女子高を舞台に、少女たちは”自分”とは何者なのかに葛藤する!!『女子高生は泣かない』

■今後のインド映画・ドラマ界を背負う魅力的な出演者たち

3月から240の国と地域、日本のAmazonでも配信されててる『女子高生は泣かない』

アーリヤ・バットの姉のプージャ・バット(『ボンベイ・ベイガム-私たちのサバイバル-』『デザート・フォース』)やゾーヤ・フセイン(『ハーティー 森の神』『ボクサーの愛』)といった中堅女優も出演しているが、今後のインド映画、ドラマ界を担う若手女優たちが多く出演している。

ラーナー・ダッグバーティ主演ドラマ「ムンバイ・フィクサー」にニトヤ役で出演していたアフラー・サイード、『ニールジャー』『サタジット・レイの世界』などに出演するヒマンシー・パンディといった演技経験者もいれば、カヴィヤ役のヴィドゥシやディア役のアクスタ・スード、JC役のラキラなど、他にもフレッシュな俳優たちを多く観ることができる。

また、かつては『Babu Baga Busy』や『Rarandoi Veduka Chudham』といったテルグ語映画に子役として出演していたが、現在はミュージカル舞台版を映画化した『ミーン・ガールズ』やディズニーチャンネル映画『スピン』、Netflix映画『シニアイヤー』などアメリカを中心に活躍していた アヴァンティカ・バンダナプ が国際的女優となってインドエンタメに戻ってきたというのもキャスティングとしては注目すべき点である。

■タイトルに込められた意味とは

実は今作の原題「Big Girls Don’t Cry」は、ファーギーの同名曲が元になっているのだ。だからといってファーギーの自伝的なものというわけではなく、クリエイターのニティヤ・メヘラーがこの曲がヒットしていた当時、自分自身に通じる曲であるのと同時に、若い女性の心情を捉えた曲だと感じ、どこかでそれをタイトルにした作品を作りたいと思っていたからだ。

「Big Girls Don’t Cry」 とは “大人の女性は泣いたりしない” という、少女から女性への成長過程の繊細な部分を描いたものであめが、まさに今作のコンセプトと合致する。

ニティヤといえば『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』や『その名にちなんで』の助監督としても知られているが、シッダールト・マルホートラ、カトリーナ・カイフ主演の『あの時にもう一度』の監督であり、Amazonではドラマ「メイド・イン・ヘヴン ~運命の出会い~」も手掛けるなど、2010年以降のインド映画・ドラマ業界で地位を確立してきた女性監督。

激変するインドエンタメ業界のなかにいたニティヤだからこそ、インドに生きる3世代の女性の視点を通して”変化”の描き方には説得力がある。

ちなみに第2話では、『あの時にもう一度』の監督という繋がりがあるからか、カトリーナ・カイフの写真とエンディング曲であり動画再生回数9億回を突破した「Kala Chashma」が使用されていたりもする。

■ボリウッドの若手女優アナーニャ・パンディが猛プッシュ!!

ボリウッドの若手女優で12月から配信されているNetflix映画『そして、見失ったものは』でも主演を務めたアナーニャ・パンディが今作のPRをしているのだが、実はこのドラマのプロデューサーでもなければ出演者でもない。それでも、とにかくこの作品を観て欲しいとアプローチする広報部長的な立ち位置から作品を応援している。

出演者たちの知名度によって観る機会が奪われてしまう勿体なさを訴えかけているようにも思えるし、実際に今作は多くの人に通じる物語であり、先入観を無しにして観てもらいたいという願いも込められているのだろう。

Netflixドラマ『クラス』も導入部分としては似ている部分があり、他にもサルマン・カーンの姪っ子アリゼ・アグニホトリ主演の『Farrey』なども似た要素は多い。

『クラス』に関しくては10代の乱れた性事情とSNS社会の闇を極端なかたちで描いていたが、今作の場合は、そこまで闇深く描かれておらず、絶妙なバランスで構築されている。

貧困層や中間層が奨学金制度を使って富裕層が通う進学校に入学することで生まれるカースト制度とスクールカーストの混合のようなものを描いており、なかにはイスラム系の名前だとアメリカのビザ申請が通りにくいといったインドならではの問題も扱われているが、これはインドに限ったテーマではなく、アメリカやイギリスのティーン向け作品にはよくあるテーマであることでもある。描いていること自体に物珍しさはないが、単純にひとつのドラマとしてメッセージ性が強く、クオリティが高いのだ。

今作の舞台となっているヴァンダナ・ヴァレー女子高は、いわゆるお嬢様学校である。主に富裕層が通っており、なかには奨学生として貧しい環境で育った者もいる。

食事をするシーンでは手で食べる者もいれば、スプーンを使う者もいて、細かいところで育ちや地域の差というものが出ていたりもするし、ベンガル語なまりの生徒もいたりと、どうしても格差は出てきてしまうが、常用語は英語である。

1話の導入として問題行動ばかり起こすリヤが逃亡したのと対照的にカヴィヤ(ヴィドゥシ)が小さな村から奨学生として転入してきたのだが、それが周囲に知られててしまうと、自分が貧しい環境だったというレットテルがはられてしまうため、母親がロンドンにいる中流もしくは富裕層であるかのように振舞う。

スマホ、パソコンなどのあらゆる電子機器、ガムやチョコレートといったお菓子も持ち込むことができず、男子禁制。許されるのは兄弟と両親のみといった同じ環境で生活をすることになる。

現代人からすれば地獄のような環境に思えるかもしれないが、そんな環境だからこそ、他者やメディアからの雑念を遮断し、彼女たちは自分の本質や将来、友情、マイノリティについて、真正面から”自分を知る”機会と時間があたえられているともいえるのだ。

配信プラットホームは違うものの、『そして、見失ったもの』でSNS社会によって見えなくなってしまった大切なものが何かを見つけようとする女性を体現していたアナーニャが、今作を宣伝しているというのは、何か不思議な繋がりのようにも感じられる。

■校長も主人公のひとり

生徒たちをとりまく環境に不自由はあるが、この学校の趣旨としては、社会で通用する独立した女性になること。つまり女性として、どうあるべきかという、いわゆる男性優位主義、家父長制度の社会と闘うすべを教えているのだ。

そこには育ちや経済状況も関係ない。

実際にAV校長(プージャ・バット)が1話の時点で「あなたたちは何物か」という問いかけをしているのも印象的だ。

言葉数が少なく、ときに冷酷に見えるが、彼女は彼女で学校を存続させなければならないという責任から、ときに家父長制度に屈する場合もあるものの、生徒たちの成長と時代の変化、そして男性たちの意識も変化してきていることを肌で感じながら彼女自身も成長していく。

キャラクターが多く、メインキャラクター以外にも取り上げられるキャラクターが何人もいて、7話しかないというのに、ひとりひとりにかける時間配分が見事で、それでいて教師サイドの物語も描いている。

主要なことは描きつつ、まだまだ余白を残していて、シーズン2への期待が高まる。

■一時的な感情を多様性と結びつけることへの疑問を投げかける

今作でルド(アヴァンテカ・ バンダナプ )は、ヴィドゥシ( ヒマンシー・パンディ )との関係に苦しんでいる。それは単純に好きかもしれないという想いと動時に、その感情が本物なのかということについてだ。

そんなルドとヴィドゥシの関係を誰かが告げ口したことで、同性愛者であることを理由に、停学にされ、復帰したと思えばすぐに隔離されてまう。もちろんこういった行為は行き過ぎているし、多様性を無視した悪しき風習である。

しかしその一方で、自分たちがそうであると決めるには、時間をもっとかけるべきだという意味も込められている。

なぜなら、同性に惹かれたから、それが同性愛に繋がるかというと、そうではなかったりするからだ。

女子寮という環境や、今作でいうとヴィドゥシの積極性に押されて一時的に芽生えた感情かもしれない。しかし現代社会は、ケースバイケースだというのに、それを親切心のように同性愛やバイセクシャルと結び付け、決めつけて、あたかも理解者かのように”カミングアウト”する勇気を訴えかける。

ルドは、まさにそこで悩んでいるのだ。自分が同性愛者ということを悩んでいるわけではなく、本当にそうなのかということで悩んでいるのだ。そこに自分の夢や、やりたいこと(バスケットボール)を天秤にかけても、ヴィドゥシへの愛が勝るのかもわからなくて葛藤している。

AV校長も自分が同性愛者であると心から確信したヴィドゥシの姿を見て、口を出さずにそっと身を引く。この行為そのものがAV校長が多様性を無視する人物でなく、生徒たちが悩んで出した回答を否定する人物ではなかったことを証明している。

■マリにコモレビなどサントラ参加のアーティストたち

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