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帝国劇場「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル(望海風斗・甲斐翔真キャスト版)」レポート

帝国劇場「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル(望海風斗・甲斐翔真キャスト版)」レポート

バズ・ラーマンが手掛けた2001年の映画『ムーラン・ルージュ』を原作として制作された「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」。

2018年に初演をむかえ、2019年にはブロードウェイにも進出し、今も人気のミュージカル舞台となっている。

新型コロナのパンデミック前から、その傾向はあったものの、海外キャスト公演が年々減ってきていて、それこそ「雨に唄えば」や「ウエスト・サイド・ストーリー」「レント」といった、日本でも定番の作品に関しては、海外キャストが来日するが、今作のように日本初演の海外ミュージカルはことごとく日本キャストに置き換えられてしまっている。

8月16日から公演される「スクールオブロック」や以前公演された「キューティ・ブロンド」や「マチルダ」なども海外キャストではない。

ブロードウェイやロンドンミュージカルのオリジナルキャストが来日するということはめったにないが、海外公演やツアー公演用キャストが巡回しているわけだが、近年は日本が省かれてしまっているのが現状だ。

今作こそ海外キャスト版で観たい作品であったし、実際にニューヨークに行くことも考えた。

映画版は200回以上観ている作品で、舞台化の企画から完成まで、ずっと追いかけてきた作品だ。

しかし海外キャスト版を待っていたら何年先になるか、もしくは実現しない可能性もあるため、思い切って日本キャスト版を観に行くことに決めた!!

ちなみにこの舞台はダブルキャスト。今回のキャストはこの人たち↑だった。

日本の舞台はほとんど観ないこともあって、帝国劇場の中に入ったのも初めて。勝手な思い込みかもしれないが、海外ミュージカル好きというよりは、日本の舞台ファンが観にきているという印象を強く受けた。

まず日本版ということを抜きにして、そもそもの舞台版としての印象として。

トゥルーズとサティーンやミミとサティーン、そしてジドラーの芸術と現実の間での葛藤など、映画版では描かれなかった、もしくは描いていたものの尺的に不完全燃焼だった部分の関係性が掘り下げられていることもあって、物語としては深みが増しているように感じられるが、一方でデューク視点の嫉妬や憎悪といったものが薄口で、とくにラストでの扱いが急に雑になる部分がどうしても気になってしまう。

『ムーラン・ルージュ』という作品もそうだし、バズ・ラーマンが手掛けた作品には、ボリウッド映画の華やかさというのが下敷きとしてあり、それをバズ・ラーマンが独自のアートセンスで唯一無二の世界観に仕上げているわけだ。特に『ムーラン・ルージュ』の場合は、ミュージカル作品ということもあって、その要素はいつも以上に組み込まれており、作中でもインドを舞台とした作中ミュージカル劇を制作する過程が描かれているわけだが、舞台版では作中劇がインドを舞台にしたものでは無くなってしまっているのも気になる。

舞台版としての新たなアレンジとしてそうしているのし、そうしたのには、『ムーラン・ルージュ』の作中劇がいかにもインドのステレオタイプなビジュアルイメージを反映したもので、イギリスもアメリカもインドのイメージが現代的なものに変化しているからなのかもしれない。

しかし舞台は1900年代なのだから、あえてステレオタイプに向いていても問題はなかったし、ボリウッドリスペクトの入った作品から、その要素を抜いてしまうというのは、果たして正解といえるのだろうか。

演出で一番理解できなかった部分は、映画版のラストでクリスチャンがサティーンに向かって、お金を投げつけ舞台を去ろうとしたのをサティーンが思わず引き留め、クリスチャンとサティーンの想いが通じ合うというクライマックスシーンがあるが、なぜそれを実際の舞台なのだから、客席通路を使って実演してくれなかったのだろうかということだ。

ラストの奥行がある演出が、かなり平面的に感じてしまう。

日本版関係なく、海外公演でもそういった演出はないものの、逆に観客の質も高い日本だからこそ、妨害される危険性もないわけだから、それをしてもよかったのではないだろうか。

次に日本キャスト版のことについてだが、日本ミュージカル界のトップに君臨するキャストだということは十分にわかってはいるし、演技も歌唱力も申し分ないのだが、この「ムーラン・ルージュ」という作品がそもそも日本語バージョンというのが適していないのが明確になってしまったと言うべきだろうか……。

劇団四季が公演するようなディズニーミュージカルやアンドリュー・ロイド=ウェバーの作品は、セリフが歌として表現されたミュージカルということもあって、好き嫌いはあるにしても日本語になっていても、それほど違和感を感じないのだが、「ムーラン・ルージュ」はジュークボックス・ミュージカルであって、既存のアーティストの楽曲を使用している。

舞台版ではクィーンやマドンナの楽曲が省かれてしまっているものの、新たにケイティ・ペリーやブリトニー・スピアーズ、ビヨンセ、シーア、アデルといった、より現代的なアーティストの楽曲が多く使用されていて、そこは映画版と舞台版の違いとして一番楽しい部分ではあるのだが、日本語になってしまっていることで、それが半減してしまっている。

ケイティ・ペリーの「Firework」を「は~なび~」と歌っていたのには驚いたが、何よりいただけなかったのが、今作の肝となる『ムーラン・ルージュ』のオリジナル楽曲でもある「Come What May」だ。

「Come What May」とは、「どんな困難があっても、何が起きても~」という意味で、その後に「愛している」という意味の言葉が付属する。

しかし日本版では語呂的な理由からか、「Come What May」の部分が「愛して~る~」に変換されていて、その後に「どんな困難があっても、何が起きても~」が付属してくるため、物凄く違和感を感じてしまう。

セリフ部分が日本語なのは別に問題はない。せめて日本キャストであっても英語の楽曲を歌って、字幕を出すという演出にはできなかったものだろうか。

子ども向けのミュージカルアニメ映画でない限りは、日本で上映されている海外ミュージカル映画も歌唱シーンはオリジナルを使用しているはずだ。舞台版は映像ではないから、吹替えはできないにしても、日本キャストが英語で歌えばいいのではないだろうか……。

映画もオリジナル舞台も知らない人からすると、これでアリなのだろうと思うし、舞台が決して悪いというわけではない。 何度も言うが、決して日本人キャストが悪いといっているわけではない。

一流のキャストによる最高の舞台。実際に豪華なダンスシーンは必見でまた何度も観たいと思わせる魅力に満ち溢れている。

ただ……これほど英語版によって輝く作品を日本語バージョンにしてしまったのは、趣旨的な部分をいくつかはき違えていると思うだけだ。

間違いなく言えることは、また映画版を観たくなるし、海外キャスト版も観たくなるはずだ!!

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