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この映画語らせて!ズバッと評論!!『マ・レイニーのブラックボトム』時代・時代の黒人の抱えていたものを代弁し続けた劇作家が伝えたかったものとは!!

この映画語らせて!ズバッと評論!!『マ・レイニーのブラックボトム』時代・時代の黒人の抱えていたものを代弁し続けた劇作家が伝えたかったものとは!!

作品情報

舞台は1927年。情熱的で歯に衣着せぬブルース歌手マ・レイニーとバンドメンバーたちの想いが熱くぶつかり、シカゴの録音スタジオは緊張した雰囲気に包まれる。劇作家オーガスト・ウィルソンの代表的戯曲を『フェンス』で監督・主演を務めた俳優デンゼル・ワシントン製作によって映画化。出演は『ウォント・バック・ダウン -ママたちの学校戦争-』『スーサイド・スクワッド』のヴィオラ・デイヴィス、『ハイスクール・ミュージカル ザ・ムービー』のテイラー・ペイジ 、そして今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンなど。

『マ・レイニーのブラックボトム』レビュー

1920年代のシカゴが舞台。オーガス・ウィルソンという人物は『フェンス』や『ピアノ・レッスン』(日本未公開)、その他の作品でも描いているように、歴史的で象徴的な事件や出来事ではなく、日常の会話や何気ない日々の中で、黒人の中でも、特にアフリカ系アメリカ人の人々の意識や概念の変化というものを描き続けてきた。それは今作も同様であり、オーガスト・ウィルソンの作家性である。

1920年のシカゴというのも、アクセントとなっている。南部のアフリカ系アメリカ人による、北部への大移動がはじまったのが1910年頃であり、舞台となる20年代には、シカゴにおける黒人の人口というのは10万人を超えていたのだ。

特に当時のシカゴという街は、多国籍な音楽や芸術を取り入れる傾向にあったため、音楽や芸術業界に携わる白人たちには、ビジネスとして、黒人のルーツともされるジャズやブルースといったものに大変興味をもっており、何とか白人のものにしてしまおうという、裏事情が渦巻いていたにしろ、それがあったことで、差別としては、芸術業界においては、若干ではあるが、緩和されていたようには思える。

映画『ドリームガールズ』の中でも、ビッグ・ママ・ソーントンの「ハウイントド・ドッグ」が今では、エルヴィス・プレスリーの曲とされてしまっているということに触れられているし、劇中でもエディ・マーフィが演じたジミーとドリームズ達が生み出した曲「キャデラック」が白人によって奪われるというエピソードがあったように、日常茶飯事に行われていたのだ。

そんな現状を打破するべく、立ち上がるというエピソードがあったし、実際に『ドリームガールズ』のモデルともなっている「モータウン」がやってきたことではあるが、黒人のもつ音楽性の高さは、昔から目をつけられていて、あたかも白人たちの文化であったかのように取り込んでいったという状況があったのだ

『ドリームガールズ』の舞台は1960年代ではあるが、多文化、多国から取り入れた芸術をあたかも、アメリカ白人のものであるかのように、変換していったという風潮が始まっていったのが正に1920年代といえるだろう。

緩和されていたとはいっても、人々の差別意識というのは、ぬぐい切れていないという状況にあった。それもそのはずで、公民権運動後の1960年代後半や1970年代でも残っていたほどであるし、現代でもあるわけだから、奴隷制度が撤廃された、黒人たちを受け入れるようになったとはいっても、人々の中にあるものというは、簡単には消えることはないということだ。

緩和されていのは、アーティスト本人だけに限ったことで、周りのバンド達はまた別扱いである。マ・レイニーの白人に屈しない態度と、親族というだけで、吃音もちの甥の優遇を間近で見ていたレヴィーというのは、かなり複雑な位置関係にある。

当時の黒人差別のコントラストを象徴的に描くものとして、マ・レイニーとバンドのレヴィが対照的なキャラクターとして配置されているのだ。

マ・レイニーのような大きな態度をもしレヴィがとったとしたら、すぐに音楽業界から排除されてしまう。

母が白人にレイプされて、父が見ないようにしていたというトラウマを抱えていて、音楽のためとはいえ、白人に下手に出て、口答えができない自分へのもどかしさと葛藤が描かれる中で、物語は思わぬ展開を迎えるというのは、オーガスト・ウィルソンの中でも今作は、なかなかシニカルな作品である。

オーガスト・ウィルソンの作品の特徴としては、会話劇であるということだ。『フェンス』では監督を務め、今作ではプロデューサーを務めたデンゼル・ワシンシンのリスペクトもあったからこそ、舞台劇のようなテイストを残しているため、『フェンス』の場合もそうだったように、映画的演出で表現するのではなく、あくまで会話や周りの変化で感じさせるというスタイルをとっているのだ。

レヴィには、若さと希望があった。しかし、希望がある故に越えられない壁がある。それは白人が黒人の文化、芸術を消費すること。飲まれることしかできない立場にいるレヴィ。

しかし、マ・レイニーは、1920年代を生きている同じ黒人であるのにも関わらず、白人が頭の上がらない存在であることがいかに偉大なことであるのか。希望があるが故に、同じ土台に乗ることへのハードルが高すぎると突き付けられたのだ。

劇中で靴を踏まれることに過剰に怒るシーンがあるが、レヴィにとって靴は「将来」や「希望」の象徴であり、それを踏まれたということは、希望を踏みにじられたと感じたからだ。

タイトルはマ・レイニーとされているが、今作での主人公は間違いなくレヴィである。

点数 89

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